扉グループは、長野県松本市の国定公園内に佇む一軒宿「扉温泉 明神館」をはじめ、宿泊施設およびレストランの運営を行っているグループです。標高1,050メートルの深山幽谷に佇む明神館は、創業以来約95年にわたって、訪れる人々を迎え続けてきました。温泉や地産地消の食を通じて、豊かな自然の中でゆったりと過ごす“何もしない贅沢”を提供しています。
現在は宿泊施設5施設、レストラン4施設を展開し、日本が誇る文化と、拠点である松本の魅力を国内外へ発信することを使命に、地域と共生しながらその発展に貢献する事業を推進しています。
その扉グループの4代目として事業を継承した代表取締役社長・齊藤 忠政氏は、地域文化との共生を大切にしながら、持続可能な観光のあり方を追求しています。
今回は、その齊藤忠政氏に、これまでの歩みと今後の展望についてお話を伺いました。

団体旅館から個人客重視へ、痛みを伴う大改革
1931年の創業以来、初代・齊藤武茂が大切にしてきた価値観を受け継ぎながら、私は現在4代目としてこの事業に携わっています。私が2000年頃に家業へ本格的に携わるようになった当時は、宿泊業の価値観が大きく変わり始めている時期でした。
当時はまだ団体旅行が主流で、世の中的にもお客様に対して「こちらのルールに合わせていただく」というようなサービスが一般的でした。例えば、お客様がまだ休んでいる時間に部屋へ入りお茶や梅干しを用意したり、長旅で疲れて到着されたお客様に対しても食事の時間を決めたりと、サービスを提供する側の都合が優先されていたのです。
しかし、団体旅行が徐々に減少し、お客様の滞在に対する価値観も変化していく中で、団体主体の旅館から個人のお客様へとシフトしていく必要性を強く感じるようになりました。ただし個人客へと転換するためには、単価を引き上げるだけでなく、それに見合う付加価値の提供が不可欠です。たとえば、2万円の宿泊料金を2万5千円に上げるのであれば、当然ながら値上げ分の5千円に見合うだけの付加価値が求められます。そこで、新しく露天風呂を新設するなど試行錯誤を重ねながらも滞在価値を高める改修を進め、団体から個人へと舵を切る改革を実行しました。
また、それを機にサービスのあり方も見直し、お客様を過度に拘束せず、自由に過ごしていただく時間を大切にするなど、さまざまな点からサービス改善を行いました。その結果、約3分の1のスタッフが離職するという厳しい状況にも直面しましたが、お客様に支持していただけたことで、改革を推進することができました。
その後、旅館でのマネジメントを通じて売上や客単価の向上を実現しましたが、当時はまだ社長ではなかったため、2006年に別会社を設立し、自ら経営を担うことを決意しました。その取り組みの一つが、古民家を再生したレストラン「ヒカリヤ」の立ち上げです。
今思えば「良いものをつくれば必ず評価される」という若さゆえの甘さもあったのだと思い、オープンから半年ほどで来客が激減するという非常に厳しい状況に陥りました。多額の借入も抱えていたため、スタッフの給与を支払うために、自らの車や資産を手放すこともありました。この苦しい状況が約2年続きましたが、ブライダル事業を立ち上げたことで徐々に業績が回復していきました。事業として自立できるまでに、およそ4年を要しました。
取材担当者(石嵜渉)の感想
団体旅館の文化から個人客重視への大改革を断行し、スタッフの1/3が離職するという痛みを伴う決断をされたことに、強いリーダーシップを感じました。特に、古民家再生事業ヒカリヤの立ち上げ初期に、大きな借金や資産売却を伴う苦難を経験されたにもかかわらず、最終的にブライダル事業で立て直されたエピソードは、経営者としての粘り強さと、困難な状況下でのアイデア創出の重要性を教えてくれます。既存の旅館業の枠を超えて、自分の事業を立ち上げ、困難を乗り越える経験が、その後の経営のベースになっているのだと感じました。


【3つの哲学を事業の柱に】
私たちの宿泊・レストラン業界は、いわゆる装置産業に近いところがあり、一定の投資を行わなければ収益を生み出しにくい産業構造だと言われています。一方で、投資をしすぎると回収が難しくなり、それはそれで大きなリスクが伴います。そこで私たちは一時的な流行やトレンドを追うのではなく、人間が生きていく上で本質的に求めるもの、人間にとって不可欠なことは何なのかを改めて問い直した上で、3つの哲学を事業の柱として据えました。
一つ目は、環境に配慮した宿づくりです。2000年頃から地球環境の悪化が懸念されるようになり、私たちの創業の地である明神館が国定公園内にあることから、気候変動の影響は避けては通れないと感じたからです。
二つ目は、人が本質的に求め続けるであろう「美と健康」です。これは時代が変わっても人間が生きていく上で求め続ける普遍的なテーマであると考えています。
そして三つ目は、確かなエビデンスに基づいた安全性の高い食材を用いて、お客様に料理を提供することです。2000年前後は旅館業界において産地偽装などが問題となった時期でもあり、お客様に自信を持って産地をお伝えできる食材を扱うことは、私たちにとって何より重要な責任であり、価値であると考えました。
その後、「エコ」や「サステナビリティ」という言葉が広まり、言葉自体が表層的に扱われるような時期もありましたが、私たちは一過性のものではなく、あくまでも私たちのグループが大切にしていること、事業の根幹となる価値観としてこれらを守り続けています。
こうした想いもあって、私たちは地元の生産者との信頼関係の構築に力を注いできました。料理人が自ら産地に赴き、対話を重ねながら食材を選び抜くとともに、適正な価格での仕入れができるように努力しています。現在では約150の生産者とのつながりが生まれ、これらの取り組みは地域の一次産業を支え、持続可能な環境づくりにも寄与していると自負しております。
また、自分たちの目指すエコロジーの在り方を見つめ直す中で、デンマーク発の国際的な環境認証であるグリーンキーに着目し、2009年に日本で初めて取得しました。こうした積み重ねが、現在の旅館運営の大きな基盤となっています。
取材担当者(石嵜渉)の感想
旅館業が「装置産業」であり、闇雲な投資(デザイナーズ宿の流行など)に走るのではなく、「エコ」「美と健康」「エビデンス」という3つの不変的な哲学を追求し続けた点に、長期的な視点に基づく経営戦略の強さを感じました。特に、サステナビリティが一般にチープな言葉になった後も、創業の地のリスクを認識し続け、デンマークの「グリーンキー」認証を日本で最初に取得するなど、哲学を徹底的に貫く姿勢は、私たちが社会で本質的な価値を提供し続けるための指針になります。食材を「いい値で買う」ことで地域一次産業に貢献し、有形文化財を多数運営されているという事実は、日本の文化と共存し、地域との持続可能な共存を目指すスタイルを体現しています。


【今後の展望】流行に流されない3つの哲学
私たちのグループは、訪れるお客様、地域の方々、そして私たち自身の三者すべてに価値をもたらす「三方よし」の考え方を軸に事業を展開しています。宿泊業やレストラン業においては、短期的な利益を追うのではなく、持続可能であることを重視し、長く継続していくことを前提とした事業づくりに取り組んでいます。
その実現に不可欠なのが、「人」の存在です。人が人を育て、価値観を共有しながらともに成長していくことで、はじめて事業は次の世代へと受け継がれていきます。そのためにも、私たちは大切な価値観を都度共有するということを心がけながら、組織としての持続性を高めていきたいと考えています。
また、私たちの存在価値は、地域に資すること、地域社会に貢献することであると考えています。そして、観光における「光」とは、単に写真を撮り、SNSで発信することではありません。その土地に息づく文化や、地域住民の誇りを見に来ることが、本来の観光の価値であると捉えています。
こうした考えのもと、2023年に「松本エリアにおける持続可能な観光地域づくり産業研究会」を立ち上げました。私が委員長を務め、地域の異業種20社以上の企業に参画いただきながら、地域のあるべき姿を共に議論しています。「松本」という地域が一つのブランドとして確立されることを目指して、皆でさまざまなアイデアを持ち寄り、現在も複数のプロジェクトを推進しています。
さらに今後の取り組みとして、約4年後の2030年を目途に安曇野市の文化財「本陣等々力家」の大規模改修を計画しています。宿泊施設やレストランに加え、新たに文化交流の拠点を設ける構想です。この施設では、主に学生を中心とした若い世代に参加してもらい、地域住民との対話や実地での研究活動を通じて、さまざまな社会課題の解決に取り組む場としたいと考えています。
モビリティ、環境、地域プロデュース、AIの活用など、テーマは多岐にわたりますが、少子高齢化といった地方共通の課題に対し、地域の方々や行政、若い世代がともに向き合い、解決策を見出していく。そのプロセス自体を、観光という枠組みの中で実現していきたいと考えています。
取材担当者(石嵜渉)の感想
「三方よし」をスタイルとし、地域住民や訪れるお客様、そして自社全てにメリットがある事業展開を目指されている点に、現代の企業が果たすべき社会貢献の理想像を見ました。特に、観光の光とは「地域の誇り」であるという定義、そして4年後に計画されている学生向けの「文化交流施設」の構想は、私たち若者が観光を通じて地方創生や課題解決にリアルにコミットできる具体的な機会であり、非常にワクワクする未来だと感じました。価値観を共有する「人」を育て、次世代に継承していくという考えは、持続可能な地域社会の創造に不可欠だと学びました。


【学生へのメッセージ】
社会に出ると学生時代とは違って責任が伴うようになるので、自由に使える時間は自ずと限られてきます。だからこそ学生時代はさまざまなことに挑戦できる、かけがえのない時間だと思います。自由な立場にある今だからこそ得られる経験や体験を、ぜひ大切にしてほしいですね。学校の枠にとどまらず、サークル活動に参加したり、国内・海外問わずいろんな場所に旅に出たりすることは、視野を広げる大きなきっかけになると思うので、どんどん出かけていってほしいなと思います。
知識は本から得ることができますが、知恵は経験の中でこそ育まれるものです。実際に行動し、学んだこととの違いに気づくことで理解が深まり、それが自分なりの知恵へとつながっていきます。
また、人との出会いも大きな財産です。一つひとつの出会いに感謝し、良いこともそうでないことも含めて受け止めていく。その経験を前向きに捉えることで、ご縁はさらに広がっていくものだと感じています。
長く働き続けることを考えなければならない時代において、自分が心から好きだと思える、あるいはそのビジョンに共感できる会社に出会うことが重要です。条件面だけで判断するのではなく、その会社の考え方や価値観に共感できるかを大切にしてほしいと思います。自分が本当に取り組みたいことと向き合い、長く続けていけるかどうかを見極めることが、後悔のない選択につながると思います。
取材担当者(石嵜渉)の感想
「無責任にできる体験・経験」を学生時代に積むことの重要性、特に海外旅行や多様な人との接点を推奨された点に、未来の選択肢を広げるための具体的な行動指針をいただきました。また、経営の本質が「感謝」や「ポジティブ思考」といった人間性にあるというお話、そして知識と経験から「知恵」を生み出すことの重要性は、私たちがこれから社会に出る上で、どのような姿勢で学んでいくべきかを明確にしてくれます。自己の経験を深く掘り下げることが、社会に出てからの「大きな引き出し」になるという助言は、私に強く響きました。
